【文/冨田章】
写真は「いま」を切り取る。カメラが記録するのは、常に今、この時の状況である。
だが、古賀亜希子は、現在を、ではなく過去を撮ろうとしているように感じられる。かつてこの写真家は、幼い頃に遊んだリカちゃん人形をモチーフとしていた。すでに玩具としての役割を終えた、言い換えれば死んだ人形を、この写真家は執拗に撮り続けていた。もちろんそこに写されるのは、死せる人形の現在の状態である。しかし、写真家の視線は、現在の状態を越えて明らかにその過去に向けられている。
ところで、撮られた写真は、その瞬間から過去のものとなる。「いま」を記録しながら、その1秒後には1秒前の、1年後には1年前の記録になってしまう。つまり、写真の現在とは、常に過去を内包したものなのだ。そういう点で、過去を記録しようとする古賀の姿勢は、実は極めて写真的な性格を帯びていると言うこともできるだろう。
セルビアで制作された今回の作品群でもまた、古賀の視線は過去を向いている。滞在時の日常を淡々と撮影しているようでいながら、ユーゴスラヴィア時代の歴史や、亡くなった友人への追憶が、モノクロームの写真の陰影に染みついているかのようである。それが単なる旅人の視線でないのは、彼女が長い時間をかけてセルビアの作家たちと交流を続けてきた、という経緯があるからで、どの一枚の写真にも、過去のセルビア滞在時の体験や、故人たちとのかつての会話が影を落としている。つまりこれらの写真は、古賀でなければ撮ることができなかったのであり、もっと言うなら、古賀でなければ見ることのできなかった風景の記録なのである。
今回の一連の作品は、本格的にモノクローム撮影に取り組んでいるという点で、また、極私的なモチーフを撮り続けてきた古賀が、他者の過去や、その個人的な関りを通じてではあるが、セルビアという他国の歴史にまで言及している点で、この写真家の大きな画期となることを予感させてくれる。
(とみたあきら/東京ステーションギャラリー 館長 2019年11月)